院長の独り言「ニホンザルの撃退法?④」
2009/04/23
まずは、年長者のヴィヴァルディから見てみましょう。
理容師であり、教会専属のヴァイオリニストであった父の子として1678年にイタリアのヴェネツィアで生まれました。
ヴィヴァルディが育ったころのヴェニスは貿易で栄え豊かで開放的な時代でした。吟遊詩人がリュートと呼ばれる楽器を弾きながら歌を口ずさみ、物売りの人たちもメロディー調で歌うように客寄せをします。
ミサなど教会音楽も盛んで、町は音楽であふれ、運河を行き来するゴンドラのこぎ手も流暢な歌声で互いの情報を伝え合います。開放的でゆったりした時間が羨ましいほどの優雅さで流れていたことでしょう。
「赤毛の司祭」と呼ばれたヴィヴァルディは、司祭の仕事と身寄りのない少女達を養育する施設でヴァイオリン教師をしながら、協奏曲を中心に作曲を続け教会演奏や、さらにはオペラの作曲も行いました。そしてその才能は徐々にヨーロッパ全土にまで広まっていきます。
しかし晩年は、新し物好きのヴェニスの人々から少しづつ忘れ去られ没後半年もすると、その名前もすべての曲も人々の記憶からなくなってしまったと云います・・・
そして現代にヴィヴァルディの名を蘇らせるきっかけを作った人物がヨハン・セバスチャン・バッハでした。
バッハはヴィヴァルディに遅れること7年、1685年にドイツで生まれました。100年も続く音楽家の一家に生まれたバッハは、宮廷で働く従僕の仕事に過ぎなかった音楽家の時代から、国の文化を担う職業に押し上げた立役者として大いに活躍しました。
バッハは20人の子をもつ子煩悩な父親であり、子供たちを優秀な音楽家としても育て上げました。息子を通して後のべトーベンやショパン、モーツァルトにも影響を与えました。
バッハもやはり間もなく世間から忘れ去られる存在でした。そして1829年3月にメンデルスゾーンによってバッハの「マタイ受難曲」がベルリンで演奏されたのが、1750年バッハの没後初めてのことだったのです。
これがきっかけとなり、バッハは再評価され全ヨーロッパから彼の作品が集められ出版されていきます。その作品を集めている内に、バッハが編曲したヴィヴァルディの協奏曲がいくつも発見されたのです。
バッハがオルガン用に編曲したとされる光栄をになった、このアントニオ・ヴィヴァルディとはいったい何者なのか?
ヴィヴァルディが正しく評価され認められたのは、北イタリアはトリノの国立図書館に寄贈されていた300曲以上にも及ぶ自筆原稿が、ドイツの音楽研究家により再発掘されたことが契機となりました。
ヴィヴァルディはバッハによってまったく偶然発見された大作曲家であったわけで、現代においてその人名も楽曲も有名になったのは今からほんの50~60年前のことのようです。
2人とも最期は貧困にあえいでこの世を去ったといいます。
数奇な運命で繋がったこの2人が、まさか2009年に「ニホンザルの撃退法」などどいうテーマで再び合いまみえるとは、想像だにしなかったでしょうが・・・
― 続く ―
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